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【AC2日目】助産師業について

この記事はvivit_jc Advent Calendar 2018 2日目の記事です。
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助産師業について

私が本格的にオリジナルのゲームを製品として作り始めたのは『ハコモノギョーセイ!』が最初で、これが2013年秋のゲームマーケットなので、かれこれ5年前になる。
その前にも身内で遊ぶためにアナログゲームをせっせと作っていたり、二次創作カードゲーム制作の手伝いをしたり、攻略本を作ったりといったことはしていたが、自分のオリジナルのゲームを製品の形で、というのは何段階も隔たりがある。
製品化を継続的にやるようになって、いろいろ変わった。それはたくさんありすぎてとても全てを語り尽くすことはできないのだが、一番大きなことは、「助産師」をやることなったことだ。

助産師」とは、簡単に言えば、同じようにゲームを(製品として)作ろうとしているのを手伝うことだ。親しいゲームデザイナーの間で「(ゲームを)孕んだ(アイディアを思いついたの意)」「もうすぐ産まれそう」などとふざけて言うのが流行っていた時期があって、そこからの連想で出来た言葉である。
私がゲームを作り始めたことで、次々と周りの人々がゲームを作り始めた。『ハコモノギョーセイ!』はリリースまでかなり時間の掛かったゲームで(一番最初のバージョンを作ったのは2010年)、それまでに自分の身の回りでゲームを作っている人は何人かの決まった人物だったのだが、私がゲムマでそれを頒布した後は、「今までどこに隠していたんだ?」とばかりにゲームが湧いて出てきた。そこまで行かなくても、「こういうゲーム、どうかなと思うんです」という話がしょっちゅう話題に挙がるようになった。それがとても嬉しかったので、私はそれを能動的にサポートすることにした。ただ出てきたゲームのテストプレイに付き合ったり相談に乗るというレベルではなく、アイディアで止まっているゲームをあの手この手でテストプレイ可能な形まで持っていき、もっといけばゲームマーケットで販売するところまで連れて行く。時に強引とも言えるくらいに積極的に介入を行い、それは回を追うごとに強くなっていったように思う。

あまり言うと「○○はわしが育てた」になってしまって良くないかなとも思うが、自分のブログ記事でまで謙遜する必要はないだろう。ということでこの記事では感じていることをそのまま書くことにする。大小合わせて20作くらいやってきたわけだから、多少自惚れても許されるだろう。

ここで強調しておきたいのは、助産師は助産師であってあくまでゲームを生むのは母親だということだ。母親の強い意志がなくてはゲームはこの世に生まれないし、だから助産師としてやったことを殊更自慢したいわけではない。

その辺が今日書こうとしている中身であり、今回はゲームデザインに関わる面白い話はあまり無いので、期待は禁物であると忠告しておく。

強引な助産師活動

さて、今日メインで書きたいのは、助産師活動を続けるに連れてどんどん強引になっていくことにちょっと悩んでいることだ。悩みつつも、強引にせざるを得ないという気持ちもあり、それを文章にしておくことで後で自身を振り返る時の材料としたり、今後ゲームを作る上で私の手助けを受けた人がこの記事を読むことでいろいろ察してほしいという理由がある。
強引というのは、具体的にはせっかく出来てきたゲームのテストプレイで、ルールやテキストなどの変更を強く迫ることだ。
多くの場合、ゲーム制作では「他人のアドバイスをそのまま受け入れる」ことをしてはいけない。ゲームは車のエンジンのような複雑な機構によって動作しており、エンジンの中身を知っているのは基本的にデザイナーだけだからだ。ただ車に乗っただけなのにエンジンに注文を付けるようなアドバイスには、耳を貸すべきではない。
一方で、助産師業をすればするほど、出来たてのゲームのエンジンはどういう設計で、どういうところに問題が起こりがちで、どう修正して最終的にどういう動きをするかが分かってきている。エンジンの中身は知らないが、デザイナーの気付かない異音や異臭に気付くことはできるわけだ。
この二項対立をどうするか。

今の所、私のスタンスとしては、

  • 「採用するか好きに選んでいいアドバイス
  • 「そうするよう強く推奨するアドバイス

を分けてアドバイスするようにしている。
かつては強引に言い過ぎるのは良くないと思っていた。しかし、そういう場合にはいつも、完成した後に「やはり強く言っておけば良かった」と後悔するのだ。そして「こう直すべきだった」というアイディアはデザイナー本人の同意を得られることが多い。こういう経験は1度や2度ではない。
ゲームを制作している間は、まるで映画の間抜けな悪役のように致命的な侵入者をうっかり見逃す。少しシステムの粗や欠陥、うまく行かなさ、不快さを感じても「気のせいだ」「こんなもんだろう」「たまたまこうなっただけ」と、本当にそう思ってしまうのだ。そして完成して直すことができなくなった後に、後悔するのだ。見えていた侵入者を取り逃しているわけだから、なおさら後悔する。だから油断も妥協も一切できないのだ。

booth.pm

ボードゲームデザインガイドライン』を書くきっかけになったのは、異音や異臭はそれぞれ類似点があり、ある程度パターンに分類できるとわかった事だ。そして何より、対面で言葉にして言うよりも文章の方が穏やかに物事を伝えられるからというのが大きい。

つまるところ、影響の大きさを心配している

上記のスタンスは、完全に正しいと思っている。にもかかわらず葛藤があるのは、影響力の問題だ。私のアドバイスは私の経験や好みから導き出されるので、そちらに引っ張られすぎてしまうのは良くない。私の経験や好みは大して広くない。もっと元のゲームに沿った相応しい改造ができるはずであっても、私が(間接的に)手を加えることで、過去の他のゲームに似てしまったり、元々のデザイナーのやりたかったことから逸れてしまうことがある。それを恐れているのだ。※

※この「デザイナーのやりたかったこと」というのがまた厄介で、やりたかったことが実はつまらなかったり、ゲームの核にするには小さすぎることが試した結果わかるということは往々にして有り得る。そこでデザイナーがこだわり始めると悪い方向にしか行かないので、まず「やりたかったこと」という幻想と適切な距離を置く、捨てるときは捨てるという練習が必要になってくる。

助産セカンドオピニオン

悩んでいるだけでもダメなので、一応解決策を考えてみた。たとえばセカンドオピニオンを担当してくれる助産師の存在だ。
これのハードルはいろいろあって、まず四六時中ゲームを作ってるやべー奴が私以外にもうひとり必要ということ、その人物が他人の世話を積極的に焼きに行くタイプであること、また、自分のゲームについてファーストセカンドと2回ボコボコにされるので、デザイナー側がそれに耐えられるかということなどだ。

新たな助産師が生まれる、または助産師レベルを上げるのは、なかなか難しい。
クリエイティブな人物は作りかけの作品の残骸を千、二千は持っているものだが、ゲームであればテストプレイを1,2回こなす完成度まで到達していなければ、その経験は有効ではない。
つい先日も他のデザイナーが作ったゲームのテスト中にうっかり「まずゲーム10個くらい作るといいかもしれない」と口走ってしまい反省しているところであるが、それはそれとして。

幸いにしてボードゲーム・カードゲームはペンと紙(と対戦相手)があれば作れるし、もし稼働中に問題が発生してもその場で修正パッチを何個でも、即座に適用できる。これはコンピューターゲームやイラスト、小説、音楽*1、映像作品、どれにも不可能な特長だ。何かを「完成」させる経験を最も積みやすいのではないかと思う。

だからこの調子で助産師業を続けていけば、もしかすると新たな助産師の育成に成功するかもしれない。そうすれば、より強固なデザイナー育成が行えて、私の悩みも解決する。
いつかセカンドどころかサード、フォースとエヴァパイロットばりに助産師が増えて、助産師業について意見交換できる日が来るといいなあ。


ゲームを作っているうちにゲームデザイナーを育てるようになり、今はゲームデザイナーを育てる人を育てる人になるかもしれない。ボドゲの拡大再生産か? と思われた方もいるかもしれないが、事実その通り。
人生はゲームなのだ。

*1:楽器の演奏はボドゲに近いかも